様々な安心がある。
安心は<無限なるもの>であるがゆえ、<有限>のリソースでいかなる安心を買うか、には限りがある。
「どの安心を買うか」こそ、人々を最も決定的に分断する。
なぜなら、安心、この「儚き無限」こそ、わたしたちのパトリの何たるかであるからだ。
そして、選ばれる安心、それは既に選ばれている。わたしたちが選ぶより前に、わたしたちを選んだものによって。
「いかなる安心か」は、遺産であり、呪いであり、受け継いだ借財だ。
そしてこの借りを返すためには、「いかなる安心か」ではなく、ただ「その」安心を買いつけることだけに専心しなければならない。
もちろん、安心を「買い切る」ことはできないし、借金を全返済することもできない。
安心は人々を分割する。
借財の種類が人々を「人種」にする。
それゆえ、安心こそ、諍いの種であり、疑うことのできない戦争なのだ。
それは安心を捨て、安心のために戦うことだ。
ただ、戦争の後に残るであろう自らの死体だけが、安心である。
わたしの安心は、あまりにも人々から離れすぎた。