変わっていくわたし、欲望の余白、転移


 「変わっていくわたし」を心地よく眺められるのは、変わらず見ているものがいる時だ。
 「変わってしまったわたし」が苦しめるときも、同じように見ているものがいる。
 見ているものもわたしなのだが、そのわたしを保障するものがない以上、固着点(アンカー)が必要になる。アンカーと見ているわたしは共犯関係にある。なぜならアンカー自体にも特段の根拠はない以上、見ているわたしとアンカーは相互安全保障という幻想によってのみお互いが成立しているからだ(S/<>a)。
 少し卑近に考えてみる。
 見ているものが定かでなくなってしまったとき、つまりアンカーがあやふやになり(欲望のmarginがショートカットされてしまい)「見ているわたし」以外に頼るものがなくなると、「変わっていくわたし」は致命的になる。それは既にわたしではなくなり、わたしは過去を持たなくなるからだ。
 だから、実はわたしが重要なようでアンカーこそが最後の頼りだ。
 わたしたちはナルシシズムの外部には出られないが、一方でナルシシズムをショートカットすることもできない。完全なショートカットは去勢の「排除」であり、シュレーバーだ。
 欲望の成り立つmarginとは、転移の起こる余白でもある。