額面どおりに受け取るものは、アクティング・アウトする。例えば「なるほど、いかにもわたしは外国人」と納得するために、外国に旅立つ。彼・彼女らはout-lowであってもoutsiderではない。想像的平和がこの人びとを守る。
「まともな」人たちは、物事をそれほど額面どおりに受け取らない。「まともな」信仰とは、それほどには信じないことだ。
今ここにないものも存在しないわけではない。不可知のものは存在しないのか? もちろん、そう問うことはいつでもできる。だが、ほとんどの人びとは、それが「存在しない」とまでは考えない。
不可知のものの存在を保証するのは、「見守ってくれている」第三者の保証があるからだ。わたしが見ていなくても、彼が見ている。
だから、「まともな」人びとは今ここにないものも概ね存在を信じている。それらは「隠れて」いるだけなのだ。
重要なこととして、彼・彼女らは、保証してくれている第三者までも、それほど熱心に信じてはいない。多分、不可知のものの存在を保証するもの、それすらあまり当てにはならない。端的に言って、そのようなものは多分存在しないだろう。
存在しないものによって保証された存在を信じることができるのは、保証するものについて大切なのが、それが存在することではなく、その存在を願うことだからだ。仮に存在が決め手になるなら、第三者はさらにそれを保証する存在を必要とし、無限背進に陥るだけだ。
保証するものは欲望の回路の中で機能する。それは明滅するものとしての<わたし>が要求を繰り返す、という形で様々な縁にピン留めされている。わたしたちが、ただ存在する享楽から引き離されるということは、これに代わり世界の存在を保証する欲望の回路を回りだすことと同時的だ。
しかし、このような回路に入り損ねたものがいる。
この人びともまた、額面を信じないが、額面どおりに受け取ってアクティング・アウトすることもない。
彼・彼女らは、額面の「本当の意味」を見つけようとする。
もとより保証するもののない額面に真の意味を求めても、合わせ鏡の地獄に陥るだけだ。この地獄は果てしなく、もちろん「本当の意味」が見つかることはない。「本当の意味」は一瞬のきらめきとして見出されるが、それは手の届かない「ただ存在すること」の如く、すぐに彼方へと去ってしまう。
限られた人々だけが「本当の意味」を見つけ、遠くへと旅立った。彼らのことを見たものも聞いたものもいない。
あまりにも遠く、とても遠くへと旅立ってしまったのだ。