罪の<他者>は裁くが、恥じらいの<他者>は傍観する。
明滅としての主体以前のものが、存在を恥らう。
しかしこの存在は、断罪の残余というよりはむしろ、猥雑に剥き出しにされてしまった肉だ。
法を知るものたちが、法以前として想像する肉。
それゆえ、法を知るものたちにとって、肉としての恥じらいは、去勢の否認、あるいはむしろ去勢可能性の隠蔽として機能する。フェティッシュとは、この「存在」を仮託された想像的な肉だ。
恥となることは物質になることだが、法を知るものたちがそこに見て取れるのは、せいぜいが肉である。
あるいは、彼らがお遊戯「プレイ」で味わう恥辱とは、肉という虚像にすぎない。
わたしたちの継承した罪は、ただ利子だけを支払い再び負債として明け渡すことだけが求められるが、負債の全済を目論む狂気は、この罪を特段の罪として引き受ける。
負債を全済するものは、罪を物質へ、恥へと換えなければならない。
そしてこの恥は、行き過ぎる。
肉に見えたもの、それが所詮は法を知るものたちのスクリーンにすぎないことを、この者はすぐに発見してしまう。正確には、そこを通り過ぎてから気付く。
フェティッシュとしての恥じらいとは、罪の領野にいるものたちにしか目に入らないものなのだ。
生まれながらにして「恥」であるものたちは、恥じらいを知らない。彼女たちほど穢れた「恥知らず」はない。
罪の次元から始めて、罪を恥としたものは、肉を通り過ぎ物質となる。
しかしより重要なのは、物質となったものの背後で、依然存在しない何かが思考し続けている、ということだ。
恥とは、裁く<他者>を持たない物質だ。裁く力もないもの、世界の中へと手を伸ばす術をすべて奪われたものとして、物質を眺めているものがいる。それがcogitoであり、クローゼットの視姦者だ。目が眼差しを覆い隠すように、罪人はクローゼットに隠れた。
罪を恥としたものは、物質として肉を超えると同時に、クローゼットから世界を覗き見る。
否認すべき去勢すら知らなかったがゆえに、もっと遠くまで来ることができたのだ。
多分、少し遠すぎて、わたしの声は彼女には届かないし、恥じらいのあまり息をすることもできない。
クローゼットの中であれ、外であれ。一人であることに変わりはない。