目的地は違う、バスは同じ、だがどこにも到着しない


 エロティックなものは「ひっかかり」のようなもので、グッときても一瞬先はわからない。多分、圧倒的に暴力的なもの、他人の欲情をかすめ取るようなものが一番エロいのだろう。
 他人がわたしを見てその人なりのエロを投影していることもあるのだろうけれど、これもさっぱりわからない。気付きもしない。他人が自分に見るエロさには常に手が届かない。
 しかしこれは当たり前のことで、欲情というのは何かが隠されること、対象の細部が覆われてしまうことによって成り立つのだ。正確には、そこに何もないことが隠されることによって、合わせ鏡的なナルシシズムがインフレイトしているのであり、むしろ理解を拒むところにこそエロティシズムの骨頂がある。


 だがこれは、自慰的な関係が分断されたまま散在する、という一人一票的退屈なモデルを強化しているのではない。
 なぜなら、すれ違ったまま二人自慰すること、それを見ているものが誰かいるからだ。「立派にfuckしているアタシを見て」というわけだ。
 すべてのsexはpublic sexである。
 そう、面倒だからエロいと思ったらさっさと押し倒せば良いのだ。「誰か」が見ている前で!
 そして気が乗らなかったら戦おう。きっとその方がもっとエロい。
 思い出した、同意ほど興ざめなものはないのだった。