変な目


 「変な目で見られる」という表現は変だ。変なのは見られたわたしであって、見ている目ではない。
 しかしやはり、変な目こそ変だ。ここでの目は、光の取り込み口としての目ではない。見ている何か、正確には見ているものとして見えている目、そのような目が変なのだ。例えば、擬態の目は見るのではなく見ているように見られるためにある。見ることより、見られることが先立つ。
 変な目は受像ずるのではなく「見える」ものだ。そこに「他我」を読み込み「相手の立場から見」てしまうと、既に相対主義の泥沼へと一歩足を踏み入れている。可能世界は端的に存在しない。
 変な目が見ているのだ。
 そしてその目は目に見えるのだ。見えてしまった瞬間から、わたしは世界との関係でしかわたしを見ることができなくなる。
 そういう時、「あの人は変になった」と解釈してしまうと、一番重要なものを取りこぼしてしまう。変な目で見られて、初めてわたしは変なものとして浮き立ち、存在する。
 「お前はここに来るべきじゃなかった」。
 そう言われたものだけが、そこに存在する。
 変な目は禁止によって補足し、許可する。