本当に皆、出会いを求めているのだろうか。
出会ってしまうのは恐ろしいことだ。
何と出会うのか。
決定的なもの、決められてしまうものに。「お前は……」と、名付けるものに。
この出会いは致命的で、「出会ったが最後」だ。
出会おうとして、出会い損ねる、このホメオスタシス、「穴の回りを廻る」ことにこそ核心がある。
しかし一方で、やはり「最後」には出会ってしまうのであり、つまりは出会わせる何か、という力動についても考えないわけにはいかないのだが。
ナイーヴな二元論としてしばしば批判されるフロイトが、実に正鵠を得ているのはこの点だ。
このあり得ないはずのニ元性に目を閉ざしてしむほうが、よほど愚劣なのだ。