吝嗇なる肛門的精神の考えるところとは結局、
「どうしたらわたしは許してもらえるの? これだけやっているのに、まだだめなの?」
というものだ。
諸々の強迫的ルールは、許可を得るために構築される。あたかも与えられたかの如く、作り上げられる。
しかし当の本人もわかっているのだ。許可など永遠に出ないことを。なぜなら許しは既に得られてしまっているのであり、これ以上なすべきことなど何も残っていないのだ。
慣性は、誕生それ自体によって十分与えられている。
その中で何かすることがあるとしたら、それは逆説的にも慣性を終わらせること、地平線の向こうへの永遠の落下という軌道を外れ、大気に焼かれる道を模索することでしかない。
出会いを求める諸々のパフォーマンスとは、畢竟ここに帰着する。
もちろん、この願いがすぐさまかなえられてしまってはやはり困るわけで、つまりは少なくとも二つの志向性がある。
そしておそらく、この二律背反を仲裁する第三の力が。