疎外と分離、ホメオスタシスと死の欲動、あるいは様々な風景


 変わっていくわたしがわたしなのだろうか。
 変わっていくのを見ているわたしがわたしなのだろうか。
 まず、問いの立て方に微妙だが決定的な誤りがある。
 「変わっていく」ものは断片的な風景であり、自身が自身であることを知らない。それを「変わった」と見るのは見ているわたしである。風景はそれ自体においては連続しておらず、コマ落としのように寸断されている。これらの間に「共通項」があるにせよ、それはパンダとメロンにもある公約数であり、しかも断片同士の間にはなんら交通がない。
 だから、もう少しだけ修正するなら、
 比較されるわたしがわたしなのだろうか。
 比較するわたしがわたしなのだろうか。
 とでもなるはずだ。
 ところで、「わたし」が何らかの連続性であるとしたら、それは見ているわたしの側にしかない。バラバラの風景に連続性を与えるのは、それらを一つに束ねるものだからだ。
 しかし、そうなると見ているわたし自身の同一性を保障するものが何もなくなってしまう。
 そのため、変化しないものとしての断片一つ一つに、見ているわたしはその同一性を期待するのだ。
 比較されるもの(あるいは「変わっていくもの」)は、比較の対象となる以上、一つ一つは変わらない「モノ」ととらえられている。それはかつてわたしであったモノ、わたしの確かな根拠、語らないでも価値をもつモノ、交換価値ではなく存在価値に訴えるモノだ。
 ところがモノとして一個にまとめられるのは単独の風景であり、見ているわたしがわたしという連続性を読み込むのは集合としての風景群である。つまり、モノとしてのわたしは不動であるもののバラバラで、うごめく肉片のようにまとまりを持たない。だからこそ数直線モデルの中で語り始めたわたしは、バラバラ死体に戻りきることもできないのだ。
 ホメオスタシスと死の欲動、あるいは疎外と分離について、こんな風に語ってみることもできる。