連続的な「現実」が分節された結果、「すくい残し」が生まれる。
たとえば連続的な乳酸値の上昇が、ある時点での「疲れ」の象徴化に至る。
もちろん、このようなモデルでは現実的なものの何も理解できない。
連続的、アナログと言われる「向こうにあるもの」こそ、象徴化の後で充填された想像的なものに他ならない。
イメージとは、分節の後で、その前にあったものとして想定されるもの、隙間を埋めるパテでしかない。
隙間は壁が作られる前は、端的に無かったのだ。
サンボリックな世界とは、「無い」がある空間である。
しかし、やはりそれだけで終わりにはならない。
「疲れ」は「疲れた」という時に発生するのだろうか。
過去とは、過去時制による語らいだろうか。
「光あれ」の前に対しイメージを閉ざしたとしたら、それについて語ることは不可能になるが、正にその不可能性自体が標識として残される。
その先について「想像」したとしても、語らいの延長になるだけなのは言うまでもない。
しかし一方で、沈黙によって「それ」を示す否定神学がすべてでもない。
なぜなら、金と言われるほどに沈黙は得がたいもので、つまるところわたしたちは常に過剰にお喋りなのだ。
このお喋りは想像的なパテを埋まらない隙間に流し込むだけであろうか。
raisonの働く限りでは、その通りである。イメージとは理性的なものだ。
だがお喋りはraisonの限界を越え、口は頭よりよく回る。
つまり、縁がわたしたちを喋らせる。
穴の周囲が、性感帯が。
ただこの地点において、不可能なものは現れる。
段差のような疲れが、ラスコーリニコフが最後に夢見た「見たことも聞いたこともない者」が。