母に不足を見つけられないと、わたしは役割という形での許可が難しくなる。
このとてもよく知られた事情のお陰で、使用価値なるイメージを借りた交換価値に代わり、「存在価値」とでも呼ぶべきトリックが試みられることになる。
存在を認可するのは、(わたしとよく似た)具体的な他者ではなく、他者の全体性だ。
つまり、永遠に確かな答えを与えてくれないものの、常に何らかの「意図」は想定できる、そのような者にお伺いを立てるべく、自らの身体にリボンを結んで「どうぞ」と賭ける結果になる。
あるいは川に飛び込んで、正にその飛び込みによって、下された判決が溺死刑であるかを確かめる。
何が足りなかったのか?
もちろん、不足などない!
なかったのは、ゲームに参加しなかったものだ。