可能な限りの真実を語ったとしても、そこには依然として欺瞞がある。
わたしたちは、真実を語るフリをして真実を語るからだ。
欺きの本質は事実との相違にあるのではない。
むしろ事実と変わらず、そして事実と一致すると信じる限りにおいて語る時にこそ、欺きの本性が明らかになる。
「自分を王と信じている王」のように。
あるいはクラスクに行くと言ってクラスクに行く男のように。
この永遠に追いつけない欺瞞において、わたしたちは常に真理を語っている。
それゆえ、事実と異なる陳述においてこそ、公正さという信仰は防衛される。
「公正に語りうる可能性」を留保することにより、何であれ対象となるものを確保し、幻想を維持するのだ。
これは最悪の傷跡を開いてしまわないための治癒の過程とも言えるが、問題は、こう語りだしてしまった者にとっては縫合の糸とはならないことである。
依然として、常に真理を語りながら。