退行はしばしば真理を示しているが、それは禁止された真理である。
子供のフリ、あるいは外国人のフリ。
わたしたちが子供であり、外国人であることは「時間を超えた」真理であるが、借財を背負いゲームに参加しない、という意味で禁止されている。あるいは、罪を負わないという罪を負わされている。
想像的なcodeの中で「一人前に」夢見るために、わたしたちはある種の厚かましさを身に着けなければならない。
それは「こうなってしまった以上」から仕事を始める諦念とも言える。
「なぜこうなったのか」を不問に付したまま、目の前の仕事を淡々とこなすこと。苛烈な逃避であるが、subject従属=主体であるとは、そういうことだ。
しかしこれは、自我の次元での「決意」や「責任感」などによって果たされるものではない。むしろ圧倒的な「無責任」こそが求められる。
つまり「こうなる以前」を<他者>へと丸投げしてしまう無責任、「信心」である。
この「信心」は、信仰=家族システムではなく強制的へテロセクシズムと恋愛ファンタジーによっても実現することができる。それらは「信心」の諸バリアントの一つにすぎないが、もちろん自我の水準に選択の自由はない。
だから神は世界の内部には存在しない。世界の構造と共に神は在る。
異性と呼ばれるものも同様だが、ただ男にとっての女と、女にとっての男は同等ではない。
この不平等の前に、「補完」というイメージの不適切さを指摘しておく必要がある。
神はわたしたちを「補完」するわけではないし、女が男を「補完」したり、男が女を「補完」することもない。
これらはすべて、世界の内部に二つの要素があり、合わせて世界を充溢する、というナイーヴなイメージに引きずられている。
神は存在するというよりはむしろ存在したのであり、「こうなってしまった」以前を引き受けるために遡及的に呼び出された。
同様に、女は存在したが、しかし男にとっての男のように、そこに存在するわけではない。女は存在しない。鳥のさえずりのように、異邦人たちの語らいのように。
女は男たちのファンタジーの中に存在し、同時にその向こうでも「何か」が蠢いているが、それらは「わけのわからないもの」であり、しかも「わけのわからないもの」であり続けなければならない。これらすべての要件が満たされて初めて「女」である。
ことわっておくが、蠢いている何かは必ず必要である。つまり<現実界>の欠片がなければ、ファンタジーはファンタジーとしてすら成立しないだろう。
そのような「以前のもの」はシステムや「自然」といったイメージをもって現れることもある。
女に託された「自然」イメージなどは吐き気のするような好例である。
ここから先の不平等を考えれば、それは性と食の不平等とも言い換えられる。
セックスが必要であるように、食が必要である、とわたしたちはイメージしない。
一方がセックスの要らない身体を理想化し、一方が食の要らない身体を理想化するとしても、セックスと食の必要性はまったく同等ではない。
そのため男たちは、女たちをよりシステムそのものに近く語るファンタジーを紡ぎあげたが、一方で女たちは、そのようなシステムとして男たちを想定はしていない。
例えば「家父長制」を巡る語らいとは、正にこの想定の試みだが、「母なる自然」ほどの執拗さもなければ、女たちの間でもそれほど支配的でないのは自明である。
ファンタジーの中で女たちを突き動かしているもの、それは確かにあり、しかも多くの場合政治的に男たちが主導していることも間違いないが、しかし、依然としてそれは「男たち」として認識はされない(自分をどうしようもなく欲情させる憎い女たち、の反対物として認識されることはない)。
「それ」を指す言葉が男たちの世界にないため、男たちは女たちを「謎」として語るが、それは「それ」が女たちにとっても謎だからである。
女たちの世界には、支配者のagentが希薄である。だから逆説的に、そこでagentが明示的に想定されれば、すぐさまパラノイアへまっさかさまである(多くのパラノイア親和的男性が「病人」とはみなされないのとは対照的に)。
「それ」の名指せなさが、「こうなる以前」へのより強い不問となり、彼女たちをより「大人」に仕立てている。
もちろんそこには子を産すことが関係しているが、それは女たち一人ひとりが子を産めるかどうかということではなく、「かつて子を産んだものがいた」という形で、女たちの間に伝説があれば十分である。