致命的なのは、嘘や演技を見抜かれることではない。
最後の一人までもが見事に騙されてしまうことだ。
「暗黙のメッセージ」が誰にも受け取られることなく、「真意」を解釈してくれる者が一人も残らないことだ。
絶対的な第三者が不在であるなら、人は自分の演技に責任を持たなければならない。
この演技とは、気がついたときには背負わされていた債務のことである。
それゆえ、「演技しない」という選択肢は実体を持たない。
演技する主体に、演技が先立っているからだ。
しかし、事態が単純でないことには、例えわたしたちが演技せずに「真意」を言明することができたとしても、それが「真意」であることを保証するものが何もない、ということだ。
つまり、いずれにせよ「真意」は受け取られない。
<わたし>が誰も騙していなくても、必ず人は騙される。
問題は振り出しに戻る。
たとえ最後の一人までもが騙されることがわかっていたとしても、わたしたちは最後の一人を信じなければならない。
そうでなければ、わたしたちは嘘をつくことすらできない。
背負わされた債務は、その総額すらわからず、返せる当てもないが、返せると信じなければ、債務を背負うことすらできない。