誰にも見られることのない作品は、意味のない作品だろうか。
森の奥で大木が倒れる時、その音は存在するのだろうか。
そんな問いを立てるのは懐疑論者だけだ。さらに言えば、懐疑論者も本当に疑っているわけではない。
わたしたちは、一切の観察者を持たない大木の倒壊でも、やはり音はする、と考える。
「ものが倒れる時の音」は、そのように振舞うものとして想定されているのだ。
もちろん、常に「だがしかし」と問うことはできる。「本当に音があるのだろうか」と。
しかし音の「存在」はこのような問いも織り込み済みだ。
疑われれば疑われるほど、音は紛れもなく存在する。
なぜなら、逆説的にも、本当のところ「音」は存在などではなく、懐疑論者の言う通り、関係性の上に成り立つ仮構でしかないからだ。
それが仮構にすぎないからこそ、疑念に先回りして存在として振舞う。
大文字の他者が存在しないからこそ、その抹消に先立って想定が不可欠となるように。
誰にも見られることのない作品は、意味のない作品だろうか。
言うまでもなく、二つの問いはパラレルではない。
作品とは、鑑賞されるためのものとして規定されているからだ。
誰にも見られることのない作品は、森の奥で大木が倒れる音より遥かに危うい。
しかし危ういからこそ、より一層エロティックに特別な価値を持つ。
その作品は、人の見るためのものであるはずがない。
「少なくとも一人」の第三者、わたしとあなたを鏡地獄にしない絶対的保証人のための作品だ。
そのような第三項は、もちろんそれ自体としては存在しない。
繰り返すが、存在しないからこそ、より一層強く想定される。強い強い信念だけが、わたしとあなたの命綱だからだ。
そのような危うい第三者のためだけの作品。
この作品の意味も価値も、第三者だけにしか保障されない。
そして彼は何も言わない。言わなくなってから何年にもなる。
だからこそ、捧げものが尽きることはない。
わたしが作品なのだ。