どうしようもなく「外国人」であることを、いかに表現するか。
だが、わたしたちはいずれにせよ外国人なのであり、つまり「ニンゲン」になることによって十分に外国人であることができる。象徴的な市場参加法は、こうして外国人性をとりたててあからさまにすることがない。もちろん、彼・彼女らは自らが外国人であるとも考えない(しかし人間であるとは考える)。
あるいは、文字通り「外国」に住み、「外国人」になってしまうこと。これはわたしたちが「現実」と呼ぶ想像的な世界で「意味」の通るやり方である。つまり散文的で、想像的なアクティング・アウトだ。
散文的市場参加にはさまざまな例があり得るが、いずれも「人間」たちの目から見て理解できる(「なるほど」と膝を叩ける)形を取る(「有名人」になっても良い)。
最後に、韻文的な方法がある。
語り語られる存在であること自体に「外国人性」を表現できず、かついかなる形でも「意味」に訴えることができなかったものである。
彼・彼女たちの取る方法は「人間」たちの合理的理解を超えるが、確かに紛れもなく「外国人」であるような、現実的切断を示す。
この例にも様々なヴァリアントがある得るが、アクティング・アウトと異なり「列挙」することができない。