言うまでもなく、閉じた象徴経済に「ないものはない」。
なぜなら、それは「ない」を「ある」と分節するための仕組みだからだ(Fort/Da)。
だから、そこでは「ない」者が「ある」者を羨むと同時に、「ある」を所有する者が「ない」を所有する者を羨望する。
「ない」と「ある」を同時に所有することはできない。
「ある」者を羨む「ない」者は、「ない」を所有するという権力を持つ。
「ない」の所有は、象徴界固有の権力であるがゆえ、象徴経済に深く根ざした者からこそ羨望される。
「ない」を所有する者たちは、<それ>を文字通り持っていない、という意味で、(物質的=想像的)世界と一致しているかのように見られる(「母なる大地」..)。
つまり、象徴的権力を持つ者がその彼岸に立っている、という逆説がある。
一方「ある」者、つまり「ない」を所有する者から<それ>を文字通り持っている、として羨望される者は、「ある」が「ある」という意味で、「言動一致」しているように見られる。
羨望する彼女たちには、自分たちが持っていると想定される象徴的権力が見通せない。なぜなら、その権力は「言動一致」の世界でだけ有効となる力だからだ。
むしろ「『ある』がある」者こそ、本当の力を持っている、と考える。
「『ある』がある」を評価する世界に住む者は、「ない」が「ある」と等価である世界に入りきることはできない。
ところで、「ある」の所有から「ない」の所有へと<移行>した者はどうだろうか。
この者たちはもちろん、<それ>を手放すという意味で何かを失うわけだが、一方、そのような<移行>がある種の権力を求めて行われてきたのは、歴史の証すところである。
至高の権力を認識できる者が、その権力に向かって飛翔する。
しかしもちろん、着地した場所にそれはない。
ただ、「あの者たちはその土地に向かって飛び立った」という語らいだけが残る。
飛び立った者たちの言葉は故郷には届かない。
そして異郷の言葉が母語に等しくなることもない。