ところで、「ない」があるか、あるいは「ある」があるか、いずれにせよ何かがある、とするなら、「ない」すらない、とはどういうことか。
それは端的にない、というのが象徴経済であり、その外部を語ることはできないが、にも関わらずやはり「ない」すらない、は<どこか>にある。
つまり<それ>を持っていないがゆえに「ない」を所有している、というありようではなく、「ない」すらない、というような者である。
実は、<それ>を持つ者、「ある」がある者、彼らにはこの者たちが見えない。
彼らの住む世界には、そのようなものは端的に「いない」のだ。
一方、彼女たちが見える者もいる。
この者たちには、彼女たちが見えないという状態がよくわからない。ただ彼らには見えていない、ということを「知っている」。
この「ない」すらない者、彼女たちは<女>ではないが、それゆえにこそ、最も女である。
女とは言えないほどに、女なのだ。