自分で自分を牢屋に入れたのは、もちろん自由になるためだ。
贖罪の名の元に、吝嗇な計算により。
しかし本当に?
問題は、このわたしは牢屋に入れたわたしなのか、入れられたわたしなのか、だ。
「罪を贖った者」は、誰かを牢屋に入れて「自由」を得る。あるいは危険な男または女を閉じ込めることで「解放」される。
しかし一方で、誰かが残されている。むしろ残った者こそわたしなのではないか。
だから、これは「解放」でも「自由」でもない。まして「贖罪」などではない。
どちらかがわたしなのではなく、囚われとなったわたしと、走り去ったわたしが離れ離れになったとき、わたしという宙吊りなものが初めて生まれたのだ。
こうして、わたしにはどうしても会わなければならない人ができた。
安心して死を恐れることができるのは、その効果である。
そして「解放」ではない、free fromではないもう一つの自由の可能性が、ここにだけある。