真理への愛とは、畢竟死への執着である。
モノの領域、交換されざる経済の「変わらぬ」外部。
だから、真理への愛は秩序への執心とは異なる。死は法ではない。
しかし外部自体を名指すことができない以上、この愛は淵=周縁を巡るより他にない。
真理への愛が法則性の発見や秩序の追及といった同一性へと堕すのは、この地点である。
それでも、ホメオスタシスの執拗さに抗い、この場所まで来たことには間違いない。
ホメオスタシスは真理に抵抗する。
愛を全体性という幻想(社会=個人の実在、閉じた法則・・・)への堕落から救うには、死の無定形性自体を愛の表現に織り込むより他にない。これはホメオスタシスを欺く方法である。
だからといって、ただ法の内部に「ゴミ箱」「その他」を設け、そこへ不可能性を放り込むのでは、幻想に対する敗北である。
むしろ既に愛が達成されてしまっていること、期せずして語られてしまっている真理を振り返らなければならない。
真理への愛は、隠喩的流動の固定点として象徴的法に帰せられるのではない。
固定的でない領域において、不本意にも垂れ流されている真理を、名のもとに語って憚らない、この態度だけが愛を表現する。